謙信崇敬 ~伝統と格式を守り続けて~
新潟県上越市にある標高約180mの春日山 上杉謙信の居城として知られる。天正6年(1578)3月春日山城で急死した謙信の遺骸は甲冑姿で甕(かめ)に納められ、城内の不識院内に埋葬されたと伝わる。(法名を不識院殿真光謙信)僧侶に学び、修養を積み、師弟関係となって武将としての人格を培った謙信は、仏教全般に深く帰依したという。戦いに明け暮れた戦国の時代、領国の平安を求め神仏の力を頼り、出陣前などには毘沙門堂で戦勝を祈願したと伝わる。家臣たちの人心掌握と統率をはかり、強い指導力を導こうとしたのか。
その後、跡を継いだ上杉景勝は慶長3年(1598)越後から会津へ移封された。残された謙信の遺骸は守っていた僧侶と派遣された重臣に棺の移送にあたっての方法など、入念な指示がなされ厳重に移送された。若松城西南隅に仮安置され、法要が営まれたという。
関ケ原後混乱の中、慶長6年(1601)米沢城に移った景勝は、慶長17年(1612)本丸南東隅の高台に御堂を建立。
謙信の遺骸は二重の石棺に守られ、手厚く厳重に祀られた。景勝の遺骨は高野山に納められている。
景勝が敬慕する謙信の威光は家臣団の結束を強め、謙信への深い崇敬は約270年に及ぶ歴代藩主に引き継がれていく。
明治9年謙信と鷹山を合祀して米沢城本丸に上杉神社が建てられた。(現在は謙信のみ) 御堂の謙信遺骸は、
歴代藩主の眠る御廟所(地元ではおたまやと呼ぶ)に移され、中央正面奥の一番高い場所に安置された。
戦国武将と高野山
高野山「奥の院」には、戦国武将の供養塔が多くある。上杉謙信霊屋(たまや)には、謙信と景勝二人の石造の位牌が納められているという。戦国武将は、高野山内の各寺院と檀家関係を結び(上杉謙信は清浄心院)江戸時代も各藩とのつながりは続いたそうだ。杉の大木の中に、苔むして荘厳な石塔が敵味方関係なく並んでいる。鎌倉時代から現在まで、戦国武将をはじめ一般庶民の多くの供養塔が建つ奥の院では、空海が今も瞑想を続けているという。現在は一日2回の生身供が行われている。