2020年6月

鳥海山

 秋田県と山形県の県境に裾を日本海に浸し、出羽富士とも呼ばれる鳥海山が力強く美しい姿を見せている。日本海上からはるかに望む事ができる山は、昔からヤマアテとして航海する人々の目印になっていたという。
鳥海山を背景にして湊町酒田は最上川の河口に発展した。

最上川

 最上川は古くから水上の交通・輸送が行われてきた。河川改修は舟運航路確保を目的に行われてきた。

湊町酒田

 流路の変化は、河口の酒田袖の浦船着場(向う酒田)を最上川(当酒田・現在)へ移転させた。船問屋の三十六人衆の中には北国船(ほっこくせん)を持ち、下北半島から能登半島にかけて交易していたという。
三十六人衆は、町の自治組織を担い、町政に大きな役割を果たしてきたといわれる。

 17世紀後半、酒田湊は、河村瑞賢による西廻り航路の起点となり、米蔵が造られ、米の積み出し港として栄えた。さらに最上川上流(米沢)からの水路も開かれると今までよりまして流域の物資(米・大豆・紅花・青苧など)が集積した。年貢米は「御城米」と大きく書かれた旗幟を掲げ、弁才船(北前船)で上方や江戸へと運ばれた。
上方からは塩・魚・茶・古手などの物資とともに上方文化が内陸へと運ばれたのである。

 日本海を望む日和山公園には、明治28(1895)年最上川左岸に完成した木造六角灯台が、昭和33年移設された。御影石で造られた方角石は寛政6(1794)年以前のものという。表面に十二支と東西南北の文字が刻まれている。船頭たちは出帆のため風向きや天候を予測した。日和を見る小高い山には常夜灯がある。沖合からの目印となった常夜灯は、文化10(1813)年寄進されたもの。木造帆船で海難の多いこの時代、航海の無事を神仏に祈願した。台座には諸国の廻船問屋や酒田・加茂の問屋の名が刻まれているという。

 海船や川船の舟方衆や諸国の商人たちが出入する酒田の町には三十六人衆を中心に蔵屋敷を構えた大・小問屋や豪商たちが軒を連ね、「西の堺、東の酒田」と称されるほどになったという。風を待ち、出帆するまでの間、人々の社交の場として賑わった湊町には、おしろいの香をともなう粋な文化が伝わっている。

日本海沖合の島

 北前船は、一年のうち春から秋の間、船主自身が寄港地で荷を売り買いしながら日本海回りで、北海道と大阪を往復した。各地の特産品や生活物資が運ばれ、文物が伝えられて人々の暮らしを支えた。新潟県と山形県境の沖にある粟島は避難・中継地としての往来があったが、北前船が入港できる港はなく、海難事故が多発していたという。
享保元(1716)年秋田へ米を買いに行く途中の瀬戸内(竹原)の千石船が粟島沖で遭難したと伝わる。

 秋田県象潟漁港の北側にある「物見山」から沖に飛島が見える。鳥海山麓の各湊の風待ち・日和待ちの島でもあった。
象潟の海岸には、かつて北前船をつないだ棒杭が残っている。廻船問屋が沖に設置したもので、ヤマチョウの印が刻まれている。
船と陸を結ぶ はしけ船が行き交う港は、陸揚げされる荷物を扱う多くの人々で賑わっていたのだ。

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