大槌 小鎚
盛岡藩は三陸沿岸の上閉伊・下閉伊・九戸地方一帯を三閉伊(さんへい)と呼び、大槌・宮古・野田に代官所を置いて盛岡城下と結ぶ道を整備した。内陸と沿岸を結ぶ道は、三陸沿岸を南北に結ぶ浜街道に合流した。江戸時代の大槌は、代官所の前に市が立ち、三陸中部の交易の場として賑わった。発掘調査により度重なる火災や津波で被災しても復興を遂げてきた様子が分かるという。遠野から大槌に至る大槌街道の終着点吉里吉里には、豪商前川善兵衛の本店があった。前川善兵衛は、千石船をもち、地元の海産物や木材などを江戸・大阪などに送るなど廻船問屋として台頭し、藩の財政に貢献した。五穀豊穣・航海安全など特に漁の守り神として厚く信仰されてきた大槌稲荷神社には寄進された石灯籠などがある。
安渡地区の稲荷山にある同神社は、東日本大震災でも避難所として多くの人が身を寄せたという。昔から津波の度に被害者を受け入れてきており、津波に関する様々な教えが伝わっている。「津波のあった夜は、雪が降ろうが嵐がこようが、一晩中火を焚け。火を目指して逃げてくる人がいる。だから絶対火は絶やすな。」東日本大震災では、火の代わりに投光器を境内に灯したそうだ。常日頃から食料や燃料日用品も備えており、地域の人々の協力と結束力で避難生活を乗り越えたという。大槌稲荷神社は二度の遷座で、地元の人達から二渡(にわたり)さんと呼ばれ、親しまれているという
東日本大震災の津波による流出や火災を免れた小鎚神社。前川善兵衛から寄進された石灯籠がある。
大槌は木扁、小鎚は金扁で、その地名の由来となった「鬼打ち伝説」が語られている。
”よその土地から来た鍛冶屋の家に、毎夜鬼が来て荒しまわるので、怒った鍛冶屋が鬼を槌で叩き退治したという。その後、槌を川に捨てたところ、鉄でできた小鎚はその川底に沈み、木の大槌は、その川面に浮き流れて海へ出たが、再び岸へ戻り、一つ北の川筋の河口に着いた事により、大槌川と呼び、小鎚の沈んだ川を小鎚川と呼ぶようになったという。
「遠野上郷大槌町物語」”
小鎚地区には鍛冶絵巻があり、製鉄と関わりがあったことがわかる。小鎚神社は、三度の遷座で、山から海岸部に移っている。大槌の産業文化が山から海岸部に移ってきた様子がうかがえる。
祭りや民俗芸能を奉納する神社は、人々の結束を育み、希望を与える大きな役割を果たしている。地元の人々は、毎年の例祭を楽しみにしている。