VICの窓から

2021年6月

戊辰の役 物語るもの

関川

 多くの悲劇を生んだ戊辰戦争。戦いの歴史を物語る史跡の標柱が各地に残されている。新潟県境 関川口(鶴岡市)は、新政府軍が山越えで攻め入り、庄内藩が唯一、領内で占拠された激戦地。多くの戦死者を出した。放火と破壊・略奪により数年間苦難の生活に耐えた集落の人々。先人を偲びこの地の戦いを後世に伝えたいと旧温海町と旧大隅町の交流は続いている。

湯田川

 江戸時代末期、清河八郎(庄内町出身)の献策によって結成された「浪士組」は袂を分かち、のちの「新撰組」と、江戸の治安を守る「新徴組」に分かれた。「新徴組」は、当時江戸取締を務めていた庄内藩酒井家に一任され、江戸の治安維持に貢献した。”酒井なければお江戸はたたぬ、おまわりさんには泣く子も黙る”とまでいわれたという。昼夜交代での見廻りは「おまわりさん」の愛称となり現代に続いている。戊辰戦争が始まり江戸を引き上げる庄内藩士に従い、新徴組士136名とその家族311名は湯田川(鶴岡市)に移り、戊辰戦争を戦った。湯田川には新徴組本部跡碑や新徴組墓地がある。戊辰戦争後には、鶴岡市に通称新徴屋敷が与えられた。

西郷隆盛とのかかわり

 戊辰戦争に降伏し厳しい処分を覚悟していた庄内藩への比較的軽い処分は、西郷隆盛の寛大な指示によるものだったという。西郷の誠実な人柄の対応に感銘を受けた旧藩主をはじめ、多くの藩士が明治3年(1870)西郷の教えを学ぼうと鹿児島を訪れている。明治4年(1871)旧庄内藩中老菅実秀(すげさねひで)は、産業を興す事が社会の模範となり庄内藩の名誉につながると考え、西郷に開墾事業計画を相談。西郷は養蚕業を奨励したといわれる。明治8年、菅は鹿児島を訪れ、西郷と親睦を深め「徳の交わり」を誓い合っている。酒田市飯盛山下の南洲神社には、西郷隆盛(南洲翁)と菅実秀(臥牛翁)の対話坐像がある。

松ヶ岡開墾場

 明治5年(1872)松ヶ岡開墾事業が開始された。旧庄内藩士約3000人が月山山麓の広大な土地を開き、桑や茶を植栽した。明治7年(1874)には、当時養蚕の先進地上州島村(現・群馬県伊勢崎市境島村)へ実習生を派遣した。栽桑・養蚕技術・蚕室の構造など全般にわたり学んだ。この派遣も西郷の導きという。明治10年(1877)までに蚕室10棟を建設し養蚕事業を開始した。

 松ヶ岡開墾場には換気を良くする越屋根を設けた島村式蚕室5棟が現存する。屋根には、明治8年取り壊された鶴岡城内の蔵の瓦を約7kmの道のりを運んで使っている。本陣は、藩主の仮殿を再移築して開墾の本部とした。開墾士の住宅として新徴屋敷と呼ばれる石置屋根の建物が移築復元されている。

 旧藩主を拠り所にして菅を中心とした庄内藩士の団結した経済活動が展開していく。
地域のために取り組んだ松ヶ岡開墾場やその後の山居倉庫創設等、明日を切り拓こうとした先人の気概を感じる。
開墾の地には、歴史に埋もれた苦労を語り継ぐように、春には桜や桃の花が咲き誇る。

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