VICの窓から

2022年7月

お地蔵さんのある風景

 花巻市桜町の道路沿いに、お地蔵さんがまつられている。大きな台の上に花もそなえられていて、管理されているのであろう。かつてこの道路沿いに同心屋敷が軒を連ねていたという。同心の始まりは、天正18年(1590)豊臣秀吉による奥羽仕置のため、鳥谷ケ崎城(花巻城)に入城した浅野長政が残した配下の一隊が南部氏に仕え、城下の治安を守る花巻同心組(向御組)として城内馬場口御門下に居住したことに始まるという。延宝8年(1680)奥州街道沿いの向小路(桜町)に東西15軒ずつ移り住んだ。後に藩の処刑場は城下の南側向小路殺生場に移り、そこでは百姓一揆指導者も多数処刑されたという。地蔵尊の付近であったか。同心屋敷に居住していた人々が中心になって、鎮魂の願いをこめて地蔵尊を建て供養してきたと伝わる。石の台の上には、回向文(えこうもん)やお名前、大正11年(1922)建立などと刻まれている。お地蔵さんのある風景は、祈りの記憶をとどめているようだ。

同心屋敷

同心屋敷2軒は昭和55年、保存の為宮澤賢治詩碑入口前に移築復元された。いずれも江戸時代後期に建てられたものという。
L字型の旧平野家

コの字型の旧今川家は独特な茅葺屋根の形

雨ニモマケズ詩碑

 「雨ニモマケズ」の詩碑は、花巻農学校の先生をやめた賢治が自ら土地を耕しながら、当時の農民の生活・文化向上を目指し立ち上げた活動の場「羅須地人協会(らすちじんきょうかい)」の跡地にある。賢治が亡くなった3年後、昭和11年(1936)高村光太郎が揮亳し建立されたが、花巻に疎開していた昭和21年追刻された。

高村山荘

 昭和20年(1945)4月東京のアトリエが空襲を受け、5月花巻の宮沢賢治の実家へ疎開した高村光太郎(62歳)はその後寄宿先を変え、10月太田村山口分教場の宿直室に間借りした。11月には地元の方々の手で鉱山の飯場小屋が解体移築され、杉皮葺きの屋根・荒壁・障子一重の簡素な造りの小屋でおよそ7年間独居生活をおくった。後に地元の方々によって二重の套屋(とうおく)で保護された住居跡は、現在「高村山荘」として保存されている。ここで最初の冬に詠まれた「雪白く積めり」の詩碑も建つ。

 洩れる光で時刻を知った日時計。彫刻刀でくり抜いた明り取りの「光」の文字。智恵子をしのんだ裏の丘、農耕自炊の生活の中で、
詩を書き、地域の人々と交流を深めたという。

藤田万之助顕彰碑

 周囲には、原野山林を拓き、荒れた土地を改良してきた日々が人々の命の糧を生む豊かな耕地となり広がっている。太田村村長や花巻市助役、花巻市長を歴任した藤田万之助の顕彰碑が建つ。東北新幹線「新花巻」は地元からの要望により開設された請願駅。官民一体の誘致運動が展開した。熱烈な郷土愛と強い使命感の人と記されている。

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