2020年9月

亀ヶ岡文化

 北日本の縄文晩期(3000~2300年前)の文化を、この時代の中心的・代表的な亀ヶ岡遺跡の名を取って「亀ヶ岡文化」と呼ぶ。東北北部を中心に北海道南部・関東・中部・北陸地方他広く影響を与えたといわれる。
赤漆塗りの土器や遮光器土偶と呼ばれる空洞の土偶などの出土品は、精度の高い赤漆を作る技術を持ち、優れた造形・芸術性を物語っている。低湿地から出土した出土品は、当時のような色彩をみせているのか。遺跡の東側の津軽平野には、十三湖が広がり、遺跡付近が十三湖の湖岸だったと考えられている。

十三湖

 十三湖には、岩木川が流入し、日本海に注ぐ。日本海と接する河口部を水戸口(みとぐち)と呼ぶ。中世安藤氏の支配する津軽十三湊(とさみなと)は、日本海の海上交通の重要な湊町として繁栄した。中世の水戸口付近にある湊神社(湊明神宮)は、浜ノ明神跡に比定されており、十三湊に出入りする船を監視したり、航海の安全を願ったと考えられている。現在も、十三漁業関係者の信仰を集めているそうだ。

 水戸口は、日本海の強い風による荒波で運ばれた砂によって、閉塞や改修を繰り返しながら、時代とともに北側に場所を移動してきたとされる。行き場のなくなった十三湖の水が溢れ、岩木川下流域は湛水被害に悩まされてきた。
大正7年(1918)国による直轄治水事業が開始され、8年間をかけ測量調査が行われた。大正14年(1925)から湛水被害を防止する為の突堤工事が始まり、昭和21年(1946)に完成。長い間苦しめられた閉塞が解消したのだ。現在もその機能を維持している。北突堤は延長390m、先端の80mが南側に向いている。昭和58年(1983)日本海中部地震による津波災害を後世に伝える「津波之塔」が建っている。南突堤は約340m。両突堤間は約165m。

 十三湖水戸口突堤は、岩木川の治水と津軽平野の農業発展の礎であり、果たしている役割は大きい。岩木川の淡水と日本海の海水が混じる十三湖の汽水環境が保たれ、ヤマトシジミの産地となっている。シジミの漁場は生育環境の保全が図られている。

津軽沿岸

 市浦村(現五所川原市)の磯松海岸あたりまで、七里長浜(しちりながはま)と呼ばれる砂浜海岸が続き、それより北の海岸線は岩石海岸となっている。津軽沿岸は大部分が津軽国定公園に指定されており、変化に富んだ自然景観が広がっている。

 日本海に突き出ている小泊半島は権現崎と呼ばれ航海の目印とされてきた。徐福伝説が伝えられ、断崖の上の尾崎神社の祭神飛龍権現の脇侍(わきじ)に徐福を祀り、航海の神、海の神として信仰された。小泊村(現中泊町)では、北海道にニシンを追い、大正時代には松前方面でのイカ漁が盛んに行われていたという。航行の安全と大漁を願う人々の心の支えになってきた。北前船の時代にも、沖合を通過する船上から権現崎を拝んだという。

風の岬

 津軽海峡に突き出た岬 龍飛崎。
海峡の向こうに北海道の島影が見渡せる。津軽海峡には、西から東へ流れる3つの潮の流れがあるという。北海道の白神崎に近い「白神潮」(しらかみのしお)。「龍飛潮」は、龍飛崎にあたり、その跳ね返りが強く高い波となる。2つの潮の間は「中潮」(なかしお)と呼ばれ、難所だという。昔から海峡渡海は流れの強さ、うねりの大きさが認識されていた。北前船や漁船、青函連絡船など様々な船が津軽海峡の渡海の歴史をつくってきた。現在は、海底の青函トンネルが北海道と本州を結ぶ。津軽海峡は海の上を、海底を、渡る人々の歴史を物語っている。

 龍飛崎は、風の岬といわれるほど風の強いところ。天日の下、潮風がおいしい干物を作る。

 三厩(みんまや)港(外ヶ浜町)に昆布干しの風景が広がっている。奥州街道の終点で、江戸時代には海産物や材木の中継地であり、松前藩主の参勤交代の渡航地でもあった。藩主が入港すると、龍飛崎でのろしをあげて無事を知らせ、これを受けて白神崎でものろしで知らせたという。三厩港は明治35年(1902)青森・函館との定期航路が開かれ、昭和40年(1965)北海道福島港との間にフェリー就航した。港は多くの人で賑わったことだろう。

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